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ナカノムラ

ナカノムラの手記

#27 人からどう思われるかを気にしないなんて無理なのか?

人間関係 思考のヒント 自己啓発

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他人はあなたをどう見ているだろうか? 

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私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

 

人が社会の中で生きている以上避けて通れない問題は、自分がどう思われているか。自分が他人にどう思われているかは知ることがまず出来ない。仮に友人や会社の同僚に「俺のことどう思ってる?」「わたしのことどう?」と聞いたところで、返ってくる答えは十中八九真実ではない。ほとんどがオブラートに包まれた耳障りの良い答えにしかならない。

それもそのはずである。聞かれた側も他人の目線を気にして発言するからだ。いくらマジでクソなやつだとか、本当に面白くない凡人の中の凡人だと思っていたとしても、それを敢えて口に出して相手に伝えることのメリットが無い。他人の意見を聞き入れるのが、大人になるに連れ難しくなることは皆分かっているからだ。つまり、大人に言ったところで変わらないと分かっている。

だから子どもなんかは非常に残酷だ。思ったことをすぐに口に出す。相手の気持ちを考えた発言が出来る子なんて気持ち悪い。言いたいから言うのだ。そこに悪意は無い。相手がそれでどんな気持ちになるかなど考える余地はなく、チビにはチビ、デブにはデブ、ハゲた大人にはハゲだとハッキリ言ってケタケタと笑うのが子どもだ。私もそんなクソ生意気な子どもだった。

だがもう我々は子どもではない。大人なのだ。大人だから、他人からどう思われているのかを気にして生活する必要がある。その評価が自分の人生を決めていくと言っても過言ではない。異論はあるだろう。が、ひとまず綺麗事は無しだ。

 

人それぞれ考え方が違う

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とてもありふれたお話しをするが、人は皆、考え方が違う。考え方が違うから、他人が自分をどう思っているかを正確に判断することが出来ない。私は、人生など他人に迷惑さえ掛けなければ何をしたっていいと思っている。しかし、他人に白い目で見られないように家を建て、いわゆる並の生活を送らなければいけないと思っている人もいる。

このように、自分では当たり前だと思っていることが、他人にとっては非常識であることは幾らでも存在する。現代はSNS社会だ。SNSでは同じ趣味嗜好や思考の者同士の繋がりを簡単に見つけることが出来るため、非常にクローズドな世界の常識に囚われやすい。異なる世界の常識が交わることはとても難しく、各世界に入り込んでいる期間が長ければ長いほど、その世界での常識がより当然のものとなってくる。

SNS以外でも常識の違いは存在する。それは発育環境、すなわちお家柄である。育った環境で考え方は如何様にも変わってくる。例えば、風呂に入らずにベッドに潜ることを異様に嫌う人が居るが、それは育った環境によるものだ。この場合、家族が同じ性癖であったとは限らない。大嫌いな父親が仕事から帰ってそのままベッドインしていたとしたら、その行動は大嫌いな父親そのものとなる。もし父親を忌避していなければ、特になんとも思わなかった可能性は大いにある。良くも悪くも、育った家庭環境の影響は大きい。

 

考え方の違う相手からはどう思われてもいい?

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では、考え方が違う他人から、あなたはどう思われてもいいだろうか?「あいつは嫌なやつだしいけ好かないやつだ」と思われても平気だろうか?そもそも考え方が違うのだ、これくらいは有り得る話しだ・・・・そう思えるだろうか?

理屈の上では考え方が違うのだからどう思われても仕方がないことになる。がしかし、これぞ机上の空論。人間そこまで合理的には出来ていない。むしろ人間は非合理的である。

非合理的の所以は感情だ。感情が人の思考を揺さぶってくる。そして感情が揺さぶられるとき、人からどう思われているかを題材とした場合の最たるキーワードは「孤独感」である。人間は孤独に対しとても弱く出来ているし、いくら一人が好きだと言っている人でも、友達がゼロという人は居ない。これは協力しながら生きてきた人間の本能であり、ここから逃れることは出来ない。

じゃぁやっぱり、考え方の違う相手からどう思われてもいいなんてことは無いはずだ。孤独を恐れるのであれば、孤独の危機を感じる自分の悪評には居ても立ってもいられなくなるはずだ。でも最近増えているのだ、悪評を気にしないという人達が。

 

蔓延する「わたしはわたし」の裏に隠されたもの

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悪評を気にせず生きられる人たちがこぞって言いたがるのは「わたしはわたし」である。著名な人がこの手の発言をすると、一気にバズられる。それほど今の時代に皆が求めている考え方である。が、私はこの言葉に強がりを感じざるを得ない。ここまで紐解いたように、人間には孤独を避けるための本能が組み込まれている。

そもそも孤独とは何なのか。孤独とは、ひとりぼっちであることを指す。周りに誰もおらず、連絡を取る相手が居ない状態になるだろう。果たしてあなたはその状態でも「わたしはわたし」などと言えるだろうか?誰も居ないのだ。友人もゼロ、身寄りもゼロ。この状態でも「わたしはわたし」などと言えるのか。

答えは聞かずとも分かるが、絶対に「ノー」だ。真の孤独など耐えられるはずが無い。生きた心地がしないことだろう。幸い私には連絡を取ればいつでも相手をしてくれる友人が複数居るため、孤独に苛まれることはない。

結局「わたしはわたし」と言っている人たちには友人や仲間が居るのだ。だから個人主義風なことを言えてしまう。本当は孤独になれば誰でもいいからすがりたい気持ちになるのにも関わらず、今の環境に甘えて個人主義であることを誇り高く言いたがる。

 

どう思われているか気になるのは人間として自然なこと

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孤独にならないために、誰もが他人からどう思われているかを気にしながら生きることになる。昨今世の中に増えている「わたしはわたし」の類の情報に触れるのは良いが、その前に、どんどん周りから人が居なくなることを想像してみて欲しい。

一人また一人と姿を消していくのだ。それは孤独への危機が始まっている。どう思われているかは、周りに居る人間の数でハッキリと分かる。離れていった人たちがなぜ離れたかの理由は分からない。冒頭でも述べたが、そんなことを言ってくれる人はまず居ない。これが現実だ。

他人にどう思われるかを気にして過ごすことは不思議ではない。火のないところに煙は立たずと言うが、誰もが火元にならないように気をつけ行動し発言している。ではなぜそれほど気をつけなきゃいけないのか。それは、人それぞれの考え方が違うからだ。

人からどう思われるかを気にしていないあなた、ひょっとしたら将来周りに誰も居なくなるかも知れない。少しでも気を配ってみてはどうだろう、それだけで随分と世界は変わってくる。

 

  

おわり