ナカノムラ

ナカノムラの手記

#23 非生産的なことも、実は疲れた心には生産的

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だらだら過ごす

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私は飼いならされた犬のようにだらだら過ごすことについて、否定的な感情は一切持っていない。世の中にはだらだらしていることを怠慢だとか無気力だとか否定的な言葉で片付けようとする人がたくさんいる。

人間界では本能のままに生きることを許されない。理性を保ち社会性を持って、人という名の哺乳類同士で協力し合って生きていくことが良しとされているし、実際、この世にあるインフラはその協力を持ってして整備されているので、今このブログを書くことが出来ている。しかも無料で。

だがしかし、だらだらすることによる役得は確実に存在する。あなたがだらだらしたいと思うときは、"だらだらしたいからそう思う"のだ。

 

思ったことを素直に実行しているだけ

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なんとなく目的も無くスマホをいじり、特にやりたいわけでも無いのになんとなく気持ちよく役物が消えていくパズルゲームで遊ぶ。こういう人は今ゴマンといる。驚きなのが、これが管理職クラスのおじさんたちにも浸透していることだ。

であれば、最近の若者はだらしない!を代表とする若い世代への喝は、まず我が身の潔白を持ってからにしていただきたいということになる。

若者もおじさんも、無目的にスマホを触ってしまうのはそう思ったからそうしているだけで、そこに理由は無い。本当になんとなくである。

いつの時代もこの『なんとなく』の隙間に入り込むツールは存在した。かわら版が進化し新聞となり、そして時の主流は動く絵に変遷しテレビに移行。それが今はスマホになっているだけで、何も変わってはいない。

人間はだらだらしたいし、怠惰に生きたいもの。ダイエット本を代表とした煩悩打ち消し本がなぜ無くならないのか。その理由を考えれば自明の理である。

 

非生産的な行動

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なんとなくやってしまうことはほとんどが非生産的である。無意識の行動が生産的である人間が居たら、そいつは機械か賢すぎるアホである。普通は非生産的な行動のほうが人間は好む傾向にある。

ではなぜ人間は意味を成さない、生きるために必要のないものに執着してしまい、そしてやめられないのだろうか。単純に習慣であることに違いはないが、心にフォーカスを当てると、それは、その行動により心が落ち着くからに他ならない。

やらなくても良い非生産的な行動を苦しみながら、さも修行のように実施する人はなかなか居ない。辞めたくても辞められず、その強制力がどうしようもないものなのだとしたら、それは広い意味で脳障害を疑う段階にある。

 

生産的行動に伴う苦難

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世間一般に代表される生産的な行動に仕事がある。資本主義社会で必要なお金を生み出す仕事は、働かずもの食うべからずということわざの通り、生きる上で不可欠なものだ。

仕事が自分の好きなことだったらそれほど苦痛は伴わない。だが大半の人は、したくもない仕事をしているか、そうだとしても、社内の環境に不満を垂れて日々を生きている。

つまり、生産的行動に代表される仕事は殆どの人にとって苦しいことであり、可能なのであれば解放されたいと思っている。だが現実そうもいかないことも分かっている。それでも人間は夢を見る。いつの時代にもあり得ない美味しそうなハナシが必ず存在し、詐欺や騙りが人間の歴史上で絶えず登場するのはそのためだ。夢を見たいし、出来れば手に入れたいからだ。

人間はこの現実から逃げるために、非生産的な行動を取るようになる。だから、生産的な仕事の苦痛が強ければ強いほど、不要で無益なお遊びに興じてしまったり、なんとなく眠りに就いてしまうのだ。

 

人間は、生産的な行動に伴う苦痛が消えない限り、非生産的な行動を取ろうとし続ける

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生産的な行動の疲れから開放されるために行われるのが非生産的な行動であるため、だらだらする人は年代問わず存在する。だから若い人がだらだらしておじさんがしっかりしているのではなく、日常のストレスが強い人ほど『なんとなく』に消費される時間の配分が多くなる。

ただ若い人のスマホゲームをプレイする意図は、おじさんたちのそれとは違うことが多く、必死に真剣にやり込むことを目的としていることが多い。本気で友人と競い合うその様は、非生産的とは違った様相を呈している。それはそれでとても有益なことである。

非生産的な行動の裏には日々の疲れから開放されるため、嫌な言い方をすれば現実から逃げるための良いツールとして機能する。スマホであろうとテレビであろうと新聞であろうと、それで明日もまたやってくる苦痛への準備ができるのであれば、だらだらすることもさもありなん、なのである。

 

 

おわり